陶芸家清水善行さんに聞く「焼き物とお茶の話」その3

インタビュー
公開
4971 Views

陶芸家清水善行さんに聞く「焼き物とお茶の話」その3

土地の土でつくる。穴窯でつくる。あえて困難の多い昔ながらの作陶を今も続ける清水さん。最終回となる第3回は、独立から失敗を繰り返しながら、展示会で徐々に認められていくまでのお話です。

その3(最終回)「こだわりの解放」

清水 善行(しみず よしゆき)陶芸家。1966年、熊本市生まれ。
大学卒業後、京都府立陶工専門校で作陶を学ぶ。91年より佐賀県の黒牟田焼、丸田正美窯にて修行。94年、京都府南山城村の童仙房で開窯し独立。地元の土を使ったり、時代変遷で埋もれた焼き物の魅力を再解釈して作ったりと、焼き物の魅力を独自のルーツ的な感覚で提案している。

学生時代


岩田 和憲(以下、岩田)
もともと何がきっかけで陶芸をやろうと思われたんですか?

清水 善行(以下、清水)
僕が学生のころはバブルが絶頂期のころで、友達はみんな就職活動しながら内定をいっぱいもらってたんですよ。
僕は「どうしようかなあ…」とか思いながら。でも一回だけしたんですよ。京都の呉服屋さんに。試験受けたらすごい点数悪くて。20点ぐらいだったんで、これはもう落ちたなと思ったら「合格」と言われて。
なんかそういう時代だったんですよね。
そういう時代の中で僕は、趣味を謳歌したいのか、それとも何か没頭できるものを仕事にするのか、どっちかだなと思って。

岩田
お金を稼ぐことと自分の好きなことを切り分けるかどうか、っていうことですね。

清水
そういうことですね。
でも、普段はお金をちゃんと稼いでそれを趣味の世界で使うみたいな、そういう生活はちょっと僕には向いてないかなと思って、これは手に職をつけないといかんかなと。
ちょうどそのころ、大学の友達と一緒に丹波に行ったんですよ。で、今作られている丹波の焼き物を見たときに、これはもうほんとに若気の至りでそう感じたんだと思うんですけど、すごい頼りない感じがしたんですよ。
「これはあかんぞ」と。「これは俺がせなあかん」みたいな感じに勝手に思ったんですよね(笑)

岩田
(笑)…それで陶芸家に?

清水
聞いたら、その友達が「俺、京都に焼き物の職業訓練校あるからそこ受けようと思ってんねん」って言うんで。そいつはそのとき陶芸教室とか行ったりして粘土さわってる人間だったんですよ。僕はまったくそんなことはしたことない人間だったけど、「俺も受けるわ」って言って。
そんな軽薄な動機で。渡りに船だったという。

独立。穴窯をつくる。


岩田
この童仙房に窯を構えたのは何歳のときですか?

清水
えっとー、27、28か。

岩田
なんでここにしようと思われたんですか?

清水
いろいろ探し回ってて、そのころはまだバブルの名残もあったので土地も高かったんですよ。
信楽っていう、ここから車で30分でいける焼き物の里、そんな田舎でもけっこう高いこと言ってたので、なかなか決まらずに。
そしたら、童仙房に週末だけ遊びにくる小さな家を母親の知り合いが持ってたんですけど、「自分たちも歳取ってきたから使わんようになる」っていう話で。
「じゃあ貸してもらえないかなあ」っていう話をしたら「いいよ」っていうことになり。
こういう田舎だし、煙も出せるし、薪の窯でやりたいと思ってたので。

岩田
今、薪窯って手間もコストもかかるし、焼成に失敗すると人生賭博みたいなリスクもあるから、陶芸家のなかでもやってる人って少ないですよね。

清水
そうですね。

岩田
清水さんはずっと薪なんですか?

清水
僕が勉強した黒牟田焼っていうのは登り窯だったんですよ。
登り窯で勉強して、ここに独立するときは穴窯っていう、登り窯よりもうひとつ古い形式の窯を自分で作ったんですけど。

これがその穴窯

で、穴窯も作ったことないですし、穴窯で焼いたこともない人間が、ほんとにもう賭けといいますか、焼いたんですけど、もうめちゃめちゃ大失敗でしたね(笑)

岩田
えっ…大丈夫だったんですか?

清水
いや、もうぜんぜんダメ。
途方にくれるような状態ですよ。
で、知り合いの信楽の陶芸家の方が窯出しを見に来られて、「おまえ、これはひどいなあ」と。「おまえ、うちの電気窯で釉かけてもう1回焼くか?」って言われたんですよ。
それは自分としては情けないから「結構です」って言って。
そこから土を探し回ったり人の窯焚きに手伝いに行ったりしながら、なんとなくかたちになっていったというか。
ちゃんと準備してから仕事するっていうタイプの人間じゃなくて、ぶっつけ本番なタイプなんですよ。
それが今でもアダになってるというか。

岩田
(笑)

清水
「こうしたいな」っていう自分の心の中の瞬発力みたいなものはモチベーションになってるんですけど、

岩田
それは…受験対策ができないタイプですね。

清水
できないですね(笑)

岩田
かたちになってきたのは、何回ぐらい焼成をやってですか。

清水
4、5回かなあ。
そのころたまたま出会った人で焼き物のブローカーみたいな人がいて、「君、展覧会してみないか」って誘ってくれて、そこから仕事がどんどん広がっていくようになったっていう感じですよね。
それがちょうど阪神大震災ぐらいのときかな。
神戸の阪急デパートで展覧会だったんですけど、もう瓦礫のなかを搬入しに行って。
「こんなところで展覧会して売れるのかな…」と。
そしたらみなさんね、買いに来てくださってね。「いっぱい割れたけどもなあ、買うわぁ」って。すごく嬉しかったですね。
そこから僕の展覧会を見てくれたギャラリーとかお店の人が、「うちでもやってくれませんか」とか。そんな声をかけてくださるようになって仕事が広がってった、っていう感じですね。

こだわりの解放と、人とのコミュニケーション。


清水
須恵器だったり白磁だったり、自分は焦点をどこかに合わせながらものづくりをしてるんですけど、そこに焦点を合わせすぎて重箱の隅をつつくようになっちゃいけないなあと。
こだわりの中に自分たちはいるんだけど、こだわりを解放していかないといけない。

岩田
なんとなく、わかる気がします。

清水
焦点を合わせた先でクロスして解放していくような感じというのかな。
そこに、独りよがりのものではない人とのつながりが出てるんじゃないかな、っていうことはここ何年か前から思ってることで。
あれほどつきつめていた赤い信楽をやめたきっかけもそこだったんですよ。
そのときたまたま信楽の古い窯跡に行って、陶片をたくさん見たんですよね。

そうすると、「あっ、(昔の陶工たちは)こんなことしてたんだ」っていうのが陶片一つでわかるんですよ。土のチョイスだったり焼き方だったりとか。
僕は信楽のある部分しか見てなかった。「もっと自由でいいんだよ」「もっと解放されていいんだよ」っていうのをも教えてもらったような気がして。
今の時代を生きてる自分にとって、とうぜん今の人たちに自分の焼き物を手にとってもらってるわけですから、僕の中ではこの焼き物というものがコミュニケーションツールなんですね。これがあるからこそみなさんと出会ってるというか。
焼き物ってすでに生活必需品ではないんですよ。
みなさんのご家庭にはそれなりの道具として行き渡ってるわけで、よっぽどの何かがないかぎりは、それをもう一つ家に持って帰ろうって思ってくださるってことはないわけですよね。
僕の焼き物が、そういう人の心の襞にひっかかるものなのかどうかっていうところが大切にしてるところといえば、そうかもしれないですね。

岩田
今日はありがとうございました。


これで清水さんとのお話はおしまいです。
およみいただきありがとうございました。

清水さんのショールーム「ARABON」。廃校になった小学校プールサイドにある。



取材:岩田和憲、山上浩明
構成:岩田和憲
写真:岩田和憲、酒井香菜子

この記事のライター WRITER

岩田和憲

グラフィックデザイナー。言葉と写真もデザインも同じものとして扱っています。元新聞記者。元カメラマン。岐阜県出身。 https://www.iwata-design.com/