ドイツ緑の思想とイノベーション 前編「緑の党をつくる」—ハンス・ヴィリ・バブカさんに聞く

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ドイツ緑の思想とイノベーション 前編「緑の党をつくる」—ハンス・ヴィリ・バブカさんに聞く

ドイツ緑の党の創設メンバーであり、その思想実践として粘土ベースの自然塗料開発をすすめてきたバブカさん。まだエコという言葉が知られていなかった、そんな時代から文明と自然の調和をさまざまな実践を通して訴え続けてきました。環境先進国といわれるドイツ。その半世紀の歴史から照らす世界の課題。前編は緑の党を創設したころのお話です。

前編「緑の党をつくる」

ハンス・ヴィリ・バブカ(Hans Willi Babka)エコテック社代表取締役。元ドイツ緑の党の党員。
1943年、ドイツ・レヴァークーゼン出身。大学卒業後は物理と化学の教員となる。1980年、37歳で教職を辞し、緑の党創設メンバーとなり、メルキッシュ・クライスの区議会議員となる。緑の党の思想を実践的なものにしようと、自然塗料の開発に着手。88年、世界初の粘土をベースとした塗料の製品化に成功する。89年、エコテック社(Ecotec Natur Farben GmbH)を設立。製造過程や廃棄後まで含めた環境負荷低減の製品開発を手がけている。

ドイツ緑の党の創設


岩田 和憲(以下、岩田)
1980年に教員を辞めてドイツ緑の党の創設に関わったと聞いてますが、そのとき、ドイツでは何が起きていて、バブカさんは何を思われていたのですか?

ハンス・ヴィリ・バブカ(以下、バブカ)
ドイツもほかの国々と一緒で、戦後の経済成長期があり、自動車製造などの大きな産業、とくに工業が主流になりました。資源に限りがあると気づき始めたのもそのころです。日本もそうだと思いますが、ドイツでも公害が起きました。
ただ日本と比べて、政治参加に対しての距離が比較的近かったと思います。つまり政治的な話を日常的に交わしたり参加したりする雰囲気があり、そのなかでわたしはグリーン(緑)という考えを実現することで、世の中の流れを変えたいと思うようになっていったのです。

ドイツ語で「小麦粉を食べる人」という悪口があります。与えられたものだけを食べる人のことをさしてそう言います。それに対して、わたしは小麦を作ろうとし始めたわけです。
「自分たちで小麦を作ろう」
そんな新しい例えになるぐらいに、大量工業生産という流れを変えて次の時代を作っていけないだろうかと考えていました。
そのためには、政治、つまり政策として変えていかないと現実は変わらない。それでわたしは70年代後半にグリーンとしての活動を先導するようになり、緑の党をつくったのです(*)。
そのころの党員はほぼ教師でした。産業にかかわっている社会人ではなく、人を育てることを生業にしている人が中心だったのです。

*緑の党をつくった … ドイツ緑の党は1980年、旧西ドイツでの結成に始まる。バブカさんは1978年よりグリーンの思想にもとづく政治活動をはじめ、党創設メンバーの1人となった。ちなみにドイツには政党になるためには5%条項というルールがあり、全票の5%以上をとらないと政党として認められない。ドイツ連邦議会における緑の党は、1983年に5.6%の票を獲得し28人の議員団を送りこんだのが始まりとなる。

岩田
ドイツ緑の党は、もともとエコロジー右派中心だったところに、学生運動をやっていた左サイドの人たちが合流し、党としての数を得たという話を僕は聞いてますが。

バブカ
そうではありません。わたしたちは最初から左でした。産業的、工業的な視点の方は当時、党員のなかにはいませんでした。
有志たちと一緒に緑の党を政党にし、それから10年くらいのあいだわたしは政治的な活動をしていました。
しかし80年代後半になり、わたしは緑の党を離れてエコテック社を創設しました。
というのも、党の活動があまりに理論的に過ぎたのです。政治的な議論ばかりで、実際の社会はグリーンになっていかなかったのです。
わたしとしては、グリーンという考えをもっと実際的に実践していく必要があると思ったのです。

自然塗料の開発

バブカさんが開発した世界初の粘度ベースの自然塗料。©株式会社KS AG

岩田
それが自然塗料の開発という事業ですね?

バブカ
そうです。
その当時、緑の党から実際的な事業へと向かった人は、2人だけでした。エコにこだわり絨毯を作っているメーカーがドイツにあるのですが、その人と、ペンキを作ったわたしだけでした。
自然塗料業界についていえば、私が起こしたエコテック社以外では、リボス(*)という会社が出てきました。リボスは緑の党からの出発ではありません。子どもたちに優しくあろうという、1つの哲学をもって始められたペンキメーカーです。
そうした素晴らしいメーカーがそのころ、徐々に出てきた時代でした。環境というものがそろそろ事業になりつつある時代だったのです。

*リボス … ドイツ最大手の自然塗料メーカー。「自然と調和し、人間を育てる」というシュタイナー哲学を理念としてスタートしている。

岩田
それが、80年代のころですか?

バブカ
80年代はまだまだ主流にはなれず、事業が波にのってきたのは90年代前半になってからです。
わたしの考えでは、環境というものはすべてドイツが牽引してきたと思っています。
わたしの会社の名前はエコテック(ecotec)といいますが、それでも当時、ドイツではだれもエコ(eco)という言葉を知りませんでした。

©株式会社KS AG

モチベーションの維持


岩田
60年代後半からグリーンな思想の流れがあり、90年代でようやく表舞台で認められる。
これは長い闘いだと思うのですが、どうしてそのモチベーションを支え続けることができたと思われますか?

バブカ
第一の理由としては、わたしは何において社会に役立つことができるのか? それを探したかったのです。
わたしは変わっていたのかもしれません。「変わったことをしたい」という思いもありましたし、実際、緑のソックスと赤のソックスを互い違いに履たりしていました。
人として変わっているという認識も、モチベーションをキープできたことの理由の1つに入るのかもしれません。芸術家としてセンスがあると思っていたのです。ただそのセンスは誰も認めてくれませんでしたが(笑)。
例えばこれはミャンマーの服ですが、こういう服を着る人はなかなかいませんよね? センスがいいか悪いかは別として、です。でも、これがわたしのセンスなのです。

岩田
同士がいるのと、孤独でやるのとでは差があると思うんです。
僕はフランスに1年ほど住んでたことがあるのですが、日本と違って、その人にしっかりとした意見があれば、それがマイノリティな意見でも支持を表明する人は常に現れてそこに参加してくれる。そういう力強さみたいなものをヨーロッパでは何度も体験しました。

バブカ
1人で闘うよりも、緑の党員と一緒に闘えたのは助けになりました。おっしゃるとおりで、それは社会的にも政治的にもやりやすかったです。
そして今はCDU(*)の経済諮問委員会のメンバーもやっています。

*CDU … ドイツキリスト教民主同盟。ドイツの包括政党で、2017年現在の政権与党。

つまり緑の党だけでなく、さまざまな人たちの役に立とうと、垣根を越えて一緒に成長していけることが大切だと思うようになりました。
3.11の直後、ドイツでは原発を廃止するかどうかの会議を開きました。その決定機関の同じミーティングルームにわたしはいました。
原発には利害関係があり、できれば廃止したくはないけれど、「今回の福島のような災害があるので廃止しましょう」と涙を流しながら結論した(*)、わたしはそのメンバーの1人なのです。

*…と涙を流しながら結論した … ドイツは原子力発電所を2022年末までに全廃することを東日本大震災から4ヵ月後に閣議決定している。

バイエル一族に生まれて


バブカ
わたしの自己紹介をさせてください。わたしは物理と化学を大学で学びました。
祖父はバイエル社(*)の部長として化学塗料の製造を手掛けていました。

*バイエル社 … ドイツの化学製薬会社。1863年創業。鎮痛剤のアスピリン開発で知られる。2016年9月、遺伝子組み換え種子の世界最大手モンサント社の買収を発表。

バイエル社に関しては、親族の多くがかかわっていました。祖父は、特殊なカラー塗料を開発した関係者の第一人者なのです。そしてそのカラー塗料は、猛毒でした。今でもそれをバイエル社はペンキとして売っています。
そして今も、わたしの親族はバイエル社と関わっています。
わたしの妹の夫、つまり義理の弟は世界一の環境破壊者です。彼はバイエル社の7人いる役員のうちの1人です。彼は殺虫剤を開発し、出世したのです。
わたしは祖父から続くそのバイエル社の孫なのです。自分が平気で毒性のものを世界で売っている会社の孫であること。
なぜわたしがグリーンの思想に向かったのかの背景には、そうしたこともあると思います。


後編へ続きます。

この記事のライター WRITER

岩田和憲

グラフィックデザイナー。言葉と写真もデザインも同じものとして扱っています。元新聞記者。元カメラマン。岐阜県出身。 https://www.iwata-design.com/