小林古径邸を生かした上越市の芸術文化拠点の創生(前編)【小林古径邸の復原事業を振り返る】

インタビュー
公開
759 Views

小林古径邸の復原事業

新潟県上越市出身の近代日本画家の巨匠・小林古径の住居「小林古径邸」が、東京・大田区南馬込から上越市高田城址公園に移築復原され、一般公開されたのは2001年のこと。それに伴い、公園内の上越市立総合博物館に「小林古径記念美術館」が整備されました。そして約20年を経た2020年、「小林古径邸」に隣接するかたちで美術館が増改築されたのです。
前編は「小林古径邸」の復原事業と今回の美術館新設の両方に携わった長野市の「宮本忠長建築設計事務所」の設計士・松橋寿明さんにお話をお聞きします。

宮本忠長建築設計事務所
建築家・宮本忠長氏が「風土に根ざした建築の創造」を目標として郷里の長野に戻って設立した建築設計事務所。長野県内を中心に美術館・博物館、記念館、学校・教育施設、集合住宅、個人住宅など、多様な実績を誇る。「ソトはミンナのもの、ウチはジブンたちのもの」を基盤としたまちづくりの手法を設計理念とし、1970年代から手がけた長野県小布施町の町並修景事業は1987年に吉田五十八賞を受賞。生活のなかで育まれてきた原風景を大切にしながら、新しい文明が創出されている。

小林古径邸の誕生、そして解体へ

建築界で評価が高くても、さまざまな事情で姿を消してしまう名建築は少なくありません。「小林古径邸」も、かつては消失の危機にありました。まずはその経緯をご紹介します。

日本画家・小林古径は線画の技術を高めた清らかで落ち着きのある作風で明治から昭和期にかけて活躍し、新潟県人で初めて文化勲章を受章しました。東京・大田区南馬込に構えた木造二階建・数寄屋造りの住まいは、同じく文化勲章を受章した建築家・吉田五十八が設計。無口な古径は五十八に対し「とにかく私が好きだという家をつくってください」とだけ注文したというエピソードが残っています。

困り果てた五十八は、古径の人柄やその芸術を研究し、伝統的な数寄屋建築を基本としながらも、さりげない素材の組み合わせや端正で無駄のない空間構成で技術と感性の工夫を凝縮。施工は京都の宮大工棟梁・岡村仁三が手がけ、昭和9(1934)年に完成しました。すると、古径はすぐに引っ越さず、半年ほどは眺めて楽しむほど気に入ったといわれています。

ところが1991年、マンション建設のために古径邸の解体が決定。建物の価値を見出した所有者は、施工業者のゼネコンに保存の検討を依頼し、早稲田大学建築史研究室の中川武教授らが実測調査を行いました。そして1993年、譲渡先は決まっていなかったものの、移築復原を前提とした解体工事が行われたのです。細かい部材一本一本の解体・保存は多大なコストがかかりますが、建物の史的価値を尊重したゼネコンはなんとか資金を調達しました。誰もが理想的な移築先と復原を願っての解体工事でした。

上越市への移築と宮本忠長建築設計事務所とのつながり

1993年の古径邸解体直前には、一般市民向けの見学会も開催されました。1000人近くの市民が訪れたといいます。そして、そのなかの一人が、なんと当時、都内の大学で建築を学び、「近代住宅史研究会」という組織に所属していた松橋さんでした。

「見学会の翌年、1994年に地元の長野市に戻って宮本忠長建築設計事務所に入社しましたが、まさかその後、見学した古径邸を自分が復原することになろうとは夢にも思いませんでした」

上越市への移築復原が決まったのは、1995年。東京にあった細く華奢な建物を豪雪地である上越市に復原するには課題が多く、賛否両論があったうえ、復原先が高田城址公園の一等地、二の丸跡に建てられた陸軍将校の集会所「高田偕行社」の跡地だったことも、移築を懸念する市民感情を高めたといわれています。しかし、移築復原は当時の上越市(宮越馨市長[当時])の英断だったと松橋さんは振り返ります。

そして、復原の設計業者として白羽の矢が立ったのが「宮本忠長建築設計事務所」でした。中川教授と宮本氏が懇意にしていたこと、また吉田五十八から指導を受けた建築家・今里隆氏による紹介があったこと、「宮本忠長建築設計事務所」が古い建物の再生やまちづくり、美術館等の設計の実績があったこと、さらに長野市という距離の近さも決め手となり、依頼を受けたのです。

当時、松橋さんは入社3年目の新人。しかし社内で唯一、古径邸の実物を見たことがあった経験から、この大きなプロジェクトの担当になりました。

技術と感性を凝らした「真・行・草」による空間構成

まずは解体されたすべての柱を一本一本傷跡調査し、復原設計に向けて念入りな調査が行われました。

「だいたいどんな建物も増築や改修がされていたり、原型が崩れていることが多いのですが、全く手を加えられていない状態で当時のままの部材が残っていたのは幸運でした。そのぶん、技術的な検討には時間がかかりました」

松橋さんのその言葉からは、名建築への敬意を感じます。

そして4年の歳月を経て、2001年、古径邸は本来の細さや薄さなどの繊細な原型を変えることなく、瓦の下の融雪ヒーターや軒先の鉄骨補強などの積雪対策が施されて復原。寡黙で端正な古径の人となりを感じ取れる建物がよみがえりました。

2005年には、五十八の近代数寄屋の様式が確立していない頃の現存する数少ない初期作品として、また当時の施工技術の高さを伝える建物として建築的な価値が認められ、国の登録有形文化財となったのです。

では、松橋さんにご案内いただいた小林古径邸の一部をご紹介します。

建物全体は数寄屋建築の様式や価値概念を示す「真・行・草」の空間秩序が明確に表現されています。「真」は格調が高く権威を感じさせ、「草」は格式にとらわれず自由な発想でのデザイン、「行」はそれらの中間を示すものとされ、優美でさわやかな趣により心が和む空間です。

では、松橋さんにご案内いただいた小林古径邸の一部をご紹介します。

建物全体は数寄屋建築の様式や価値概念を示す「真・行・草」の空間秩序が明確に表現されています。「真」は格調が高く権威を感じさせ、「草」は格式にとらわれず自由な発想でのデザイン、「行」はそれらの中間を示すものとされ、優美でさわやかな趣により心が和む空間です。

玄関は鉤の手型に客用と日常使いの入り口が分けられており、そこからすぐの客間は「真」の空間。長押が設けられ、床柱は四方柾の杉の角柱、竿縁天井も柾目です。黒漆塗りの床の間に、書院窓は火灯窓をイメージさせるデザインで、水平を強調したシャープな印象。書院棚の漆は真塗の48工程で輝きを出しています。摺上障子の建具も框の中に溝を掘ることでガラスが框に納まり、非常に繊細な風情が漂います。

一方で、隣接する3畳の書斎は日常利用の「草」の空間。野趣あふれる皮付当丸太の床柱に竹製の簀子天井など、自然素材を使った茶室風のデザインです。猫間障子も他では見られないほど特徴的で、遊び心も持ち合わせた繊細優美な印象。来客時は給仕口のような開口から古径が出入りをしていたシチュエーションが想像でき、緊張感がみなぎる客間に対して自然の曲線を生かした柔らかさがあり、物事を考えるのにふさわしい空間です。

その奥に位置する居間の欄間は枠のない八掛納まりで、障子は表裏がない両面組子。建具の名工・佐野開三による作品で、細い組子の竪子と横子を交互に組み合わせることで軽さと繊細さは保ちながらも強度を高め、全体にねじれが生じないよう細工されています。そのため、何十年経っていても寸分の狂いもなくストレスのない状態で使うことができています。こうした細かく合理的な作業の蓄積により、古径邸全体が構成されています。

柱は大きく面が取られ、できるだけ薄くした鴨居の面中収まりも、一流とされる難易度の高い仕事。さらに鴨居上部の貫にボルトを仕込んで締め付け、その上から左官を塗って隠すなど、近代的な技術で補強して繊細な建物を支えています。これにより、すっきりした表現を保ちつつ、長い時を経ても建物に狂いが生じません。

さらに奥の茶の間は「行」の空間。北山杉の床柱は表面に波状の縦皺が入った人造の絞り丸太で、凹凸で自然の風合いが表現されています。竿縁天井の杉板目も客間の柾目板に比べて型を崩したやさしい印象。日常使いの座敷としてゆったり過ごせるさりげない意匠が施されています。

2階へと続く階段も「草」の空間。北山杉の磨き丸太の柱に小割板の船底天井、杉の垂木で、2階のプライベートな寝室へと誘います。

2階は自然の風合いを生かした松の皮付丸太の床柱と笹杢天井の心安らぐ座敷。古径は寝床から天井の板目の柔らかい曲線を眺めて眠りについたのでしょう。縁のない太鼓張の襖も茶室ならではの意匠です。

こうして復原された古径邸ですが、経年劣化していた瓦と土壁、畳は、デザインは当時のままに、新たなものに替えられています。瓦は軒先がシャープな一文字瓦。巴瓦は屋根の勾配に合わせてカットされ、平に削られて寸分の隙間もない施工がされています。この収まりは五十八のこだわりで、長野市の瓦職人が再現しました。また、土壁は金沢市の左官職人手段による京壁の聚楽の左官塗りで、畳の縁(ヘリ)は上越市の職人による藍染の手染めであるなど、現代の職人の技術も随所に生かされています。

写真から復元した画室と「長廊」というコンセプト

さらに、当時の再生計画は、かつて古径邸に隣接していた画室(アトリエ)にまで及んでいます。茅葺き屋根の農家を改造したもので、その設計も五十八によるものでした。昭和49(1974)年に惜しくも解体されていましたが、松橋さんは昭和13(1938)年当時の写真資料を集め、図面を作成して忠実に復元しました。ちなみに、古径邸は原型に復する「復原」、画室は元の姿に復する「復元」です。

25畳の画室の大きな特徴は雨戸、ガラス戸、障子のすべてを引き込んで開放できること。古径は画室の床に毛氈を敷いて日本画を描いていたため、縁のない畳が敷かれたフラットな大空間です。全開放の窓ガラスの障子は左右両摺上となっており、室内に注ぐ自然光を調整できる仕組みになっています。

「古民家風につくってはありますが、画室は再現なので、木材も建具もすべて新しい部材で組んでいます。当時、山翠舎の古木があったら、また雰囲気が違っていたかもしれないですね」(松橋さん)

加えて、この復原事業にあたって宮本氏が考えたのが、「長廊」というコンセプトです。雪国である上越市高田の街並みに見られる雁木のような屋根付きの長い廊下を高田城址公園の外堀から公園中に張り巡らせ、その延長線上に美術館や展示収納施設が連続して整備されることを願っての基本構想でした。そこで、古径邸に併設した管理棟のアプローチを長廊の通路としましたが、これはいずれ公園全体の動線となる将来性を考慮した設計意図でした。

さらに、古径邸復原以降、上越市に古径の作品やゆかりの品等が収集され、古径に対する市民の関心も高まっていったことから、2002年、公園内にある上越市立総合博物館に併設されるかたちで「小林古径記念美術館」も誕生しました。しかし、来訪者から「美術館の存在がわかりにくい」といった声が多く寄せられていたことも踏まえ、2016年からの長期休館を経て、2020年10月、古径邸と同一敷地内に「小林古径記念美術館」が増改築されたのです。この先は後編に続きます。

この記事のライター WRITER