善光寺門前で生まれ変わった古きよき蔵のある街並み(前編)【「ぱてぃお大門」の再生事業を振り返る】

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「ぱてぃお大門」の再生事業

長野市の善光寺表参道に位置し、多くの参拝客でにぎわう宿場町だった大門町。その一角にある蔵が立ち並ぶエリアは、かつては問屋街として発展していたものの、長らく空き家が目立っていました。しかし2005年、テナントミックス商業施設「ぱてぃお大門 蔵楽庭」として蔵群がよみがえったのです。前編は、オープンから15年を経た今、再生の立役者のひとりである長野市のまちづくり会社「株式会社まちづくり長野」タウンマネージャーの越原照夫さんと設計に尽力した「株式会社エーシーエ設計」取締役社長の小林宣範さんとともに、その過程を振り返ります。

はじまりは大門町に根ざす住民有志の思い

今ではすっかり善光寺門前の象徴的な風景のひとつとなっている「ぱてぃお大門 蔵楽庭」。かつてのこのエリアしか知らない人は、その変貌ぶりに衝撃を受けることでしょう。

というのも、大門町のこの一角は旧家の大型の蔵が集積する全国的にも希有な場所で、古くから履物店や玩具店が営まれてきたものの、バブル崩壊の頃から約20年も空き家になったまま時代から取り残されていたからです。善光寺の表玄関となる大門町にありながら建物の老朽化も激しく、なかなかここまで足を伸ばす参拝客もいなかったのが実情でした。

かつての大門町(左)と現在の大門町の風景

一方で、1998年の長野冬季オリンピック開催時に電線が全面地中化され、歩道を覆っていたアーケードが撤去された中央通り沿道は老朽化した建物がむき出しになっていました。

そこで、長年大門町で暮らしてきた住民主体の景観整備を軸にしたまちづくりが始動したのです。歴史的な街並み保存や修景などに取り組む長野市の建築家「有限会社関建築+まち研究室」関 邦則先生の指導を受けながら、住民有志からなる「大門南方商和会」は古い建物の重要性を勉強しました。

そして2000年、空き店舗のひとつに売却話が持ち上がり、マンション計画が浮上したことから、2001年に「大門南方商和会」有志の出資による組織「有限会社長野大門会館」が悩んだ末にこの土地を取得。関先生との検討の末、「この土地の奥や隣接地には数棟の土蔵や三階建の楼閣があることから、取得した土地を中庭(パティオ)化して隣接地まで回遊できるようにすれば、これまで誰も見たことのない空間になる」と考え、この「ぱてぃお大門」構想が誕生したのです。「ぱてぃお大門」の名称も住民の発案によるものでした。

同じ頃、長野市では長野冬季オリンピックの開催によって新幹線や高速道路が整い、都市の基盤整備が進んだものの、車社会の進展により郊外への人口流出やロードサイド型店舗の郊外立地化が進行。中心市街地の空洞化や商業機能の衰退が深刻化していました。2000年には中心市街地の核店舗であった「ダイエー長野店」「長野そごう」が相次いで退店。中心市街地の活性化が喫緊の課題となっていたのです。

そこで2001年に長野商工会議所がまちづくり事業を推進すべく長野TMO構想を設け、2002年に大手流通業OBを招聘。そのひとりが越原さんでした。そして経済産業省にTMO構想が認定されると、長野商工会議所に長野TMO事務局が設立され、さらに2004年には長野商工会議所を中心に、長野市、商店街、地元企業等の出資によるまちづくり会社「株式会社まちづくり長野」が誕生したのです。中心市街地活性化に向けて掲げられた16事業のひとつが、この「ぱてぃお大門」構想でした。

住民からバトンを受け継いだ「まちづくり長野」

構想は中心市街地商店街等リノベーション補助金を活用する改修計画で、当初は住民主体で進められました。長野TMO事務局(株式会社まちづくり長野)としては応援事業という位置付けだったのです。

2003年には「有限会社長野大門会館」が取得した土地を生かし、長野市の助成を受けて建物を改修。現在、ピロティとなっている中央通り沿いの「カフェ+まち案内 えんがわ」と「ギャルリ夏至 大門店」の2店舗がオープンしました。しかしその後、残る建物も再生しようと「大門南方商和会」の話し合いが進むなか、問題となったのは資金繰りと建物の所有でした。

「話を聞いていると、まず『有限会社長野大門会館』が赤字経営であること、それと関先生の計画そのものは土地や建物をテナント側がレンタルするかたちで進んでいましたが、県の補助事業として進めるためには所有物でないと補助金対象にならないという問題が発生しました。そこで、資金面から『まちづくり長野』に事業転換したいとのことで我々が引き継ぐことになったんです」(越原さん)

こうして、越原さんは当時14人ほどいた地権者全員に、商業施設として一帯を再開発するために「まちづくり長野」が事業用定期借地権で土地を借用し、建物は無償贈与を受けてリーシング事業を進める合意形成を図るため奔走しました。多くの地権者は「大門南方商和会」に参加していたため街並み再構築についての抵抗は全くなかったものの、参加していなかった2名の地権者との交渉が進められたのです。

ひとりは東京に移住していたため直接訪ねて交渉し、まちづくりへの理解のもと、土地の一部は「まちづくり長野」が購入することになりました。もう1名からはなかなか賛同が得られず、越原さんは毎日契約書を持参して説得。その書類の束が十数cmもの厚さになる頃、ようやく理解を得られたといいます。

さらに、まだ営業や居住を続けている建物に関しては、それぞれの持ち主との交渉も必要でした。特に苦労したのが、80匹もの猫が住み、猫屋敷と化していた1軒です。別の敷地に冷暖房完備の小屋を建て、当時、長野市に本社があった猫専用の動物園の従業員の協力も得ながら、全ての猫たちを移動させました。こうした影ながらの努力もありながら、「ぱてぃお大門」構想が進んでいったのです。

敷地をひとつの団地化する「連担建築物設計制度」

そもそも、この蔵群は独特な特徴がありました。中央通り沿いに商家が連なり、いずれもその奥に、商売繁盛を願って間口幅を7間・5間・3間と縁起のよい数字に変えて造った“七五三”の3棟の蔵(三連蔵)が倉庫として続く“うなぎの寝床”のような敷地で土地が分割されていたのです。また、いずれも火事が発生した際に北側に位置する善光寺方面に火が回らないよう、入り口は南側にありました。

こうした特徴的な蔵群の再開発に向け、まずは基本設計を行う業者の選定をしなければなりません。2004年には長野市内に本社を構える建設コンサルタントの参加による公開プロポーザルが行われました。2997.78㎡(906.83坪)の敷地面積にある15棟の既存建物を修復し、2005年秋の商業施設開業をめざした計画に10社がエントリー。選出されたのが「株式会社エーシーエ設計」でした。

「一級建築士の人数など会社の規模にはこだわらず、とにかく古い建物の設計に携わったことがある会社を対象とし、デザイン重視の要項にしました。つまり、エーシーエ設計さんはデザインで決まったんです」(越原さん)

当時、その計画をしたのが小林さんです。

「当然、既存の蔵の活用を重視したうえで回遊性を考えました。とはいえ、現在とは全く違う案で建物全体を2階建てにし、2階にも通路を設けてつなげていくプランではありましたが、立体的に考えていました」(小林さん)

当初の案からのプラン変更には、古い建物群ならではの苦労がありました。基本設計で最も大変だったと小林さんが話すのが、建物の接道義務です。都市部では建築基準法により建築物の敷地は「幅員4m以上の道路に2m以上接しなければならない」との規定がありますが、いずれの蔵(倉庫)も道路にはまったく接していないことから、エーシーエ設計と長野市との協議の結果、たどり着いたのが連担建築物設計制度でした。これは「一敷地一建築物」という建築基準法の原則を緩め、連なった敷地全体を一団地とする制度で、この地域にふさわしい調和のとれた街並みを修景するための手法として導入しました。適用のためには各建築物の位置や構造が、安全上、防火上、衛生上、支障がないと特定行政庁に認められる必要がありました。

「建ぺい率、容積率、防火上の規定、日影の問題などをクリアするために見つけたのが連担建築物設計制度でしたが、長野市もこの制度の適用が初めてで、お互いに協力しながら進めました。一番苦労したのは、この連担建築物設計制度活用のための安全性の担保です。防火対策として、敷地内に幅4mの道路を張り巡らすことが長野市からの条件でした」(小林さん)

そこで、一番手前の小さな3間蔵を取り壊し、さらに敷地中心部で斜めに配置されていたふたつの三連蔵を曳家(ひきや)で動かすことで、敷地内部まで車が通れる設計としたのです。

また、火災の際、壁が頑丈な蔵は建物自体は影響を受けないものの、開口部は防火設備の改修が必要でした。そこで燃焼しないアルミ製の建具にするなど、細部まで防火対策が求められました。

そのうえで、既存樹木や自然地形も生かすことが大前提だったため、建物の面積も変更しながら設計を進めていきました。

既存建物と新築を融合させた街並み修景計画

さらに、いずれも築数十年から100年を超えるような古い建物です。いざ事前調査を進めると想像以上に老朽化は激しく、予想外のことが次々と起こりました。まず、現在の建物はコンクリートの基礎があり、土台などとしっかりつながっていますが、基礎と柱がつながっていないという問題が発生したのです。

「石積みの上に柱が立っていたけど、全然つながっていないんです。建物を剥がしたら『ひえーっ!』みたいな」(越原さん)

「建築基準法でいうと既存不適格建築物になってしまって、もうみんなアウトなんですよね。それをどう合法化するか、長野市と詰めながら進めていきました」(小林さん)

全ての蔵の外壁の土壁と屋根瓦を剥離して骨組み(躯体)だけのスケルトンの状態にし、筋交いを入れたり、土台の内側に改めてコンクリート基礎を造り、基礎と土台をアンカーボルトで緊結したりと、耐震上の補強を施す必要がありました。さらに15棟の建物のうち、特に傷みが激しかった5棟は取り壊して新築することに。

「越原さんからいわれたことは『商業として成り立たないと意味がない』ということです。つまり、単に壊して広場にしても意味がなく、リーシング面積を確保するため壊した分は造らなければなりませんでした」(小林さん)

ただ、既存の蔵に新築を融合させてデザインすることは苦労もあったそう。

「新築建物をあまり近代的に設えすぎると既存建物との調和が図れない、かといってかつてと同じデザインを踏襲することもつくられたテーマパーク化してしまう。街並みの統一を図るために、瓦など既存建物の素材を使いつつ、デザインコードを共有し、色や軒の高さをできる限り合わせたり、意匠的に統一感を図ることの難しさがありました」(小林さん)

敷地全体の計画のなかでは京都で京町家再生に関する事業などに取り組む「株式会社くろちく」のアドバイスも受け、おもてなしの門構えとして北側の敷地に下屋を設けたことで統一感が増したといいます。

結果的に増工分で費用もかさみ、不足分は越原さんが政府系金融機関である商工中金から無担保無保証を取り付けました。

「既存の建物を生かしながら街並みを修景していくことは、どうしても今の建築基準法に合いません。大変なことはたくさんありましたね」(小林さん)

土蔵は扉が重く、ほとんど開いた状態で閉まらないという苦労もあったそう

既存の蔵を可能な限り生かすために

基本計画および基本設計はエーシーエ設計が担当し、デザインビルド方式で実施設計と施工を担当したのは北野建設の社寺部です。小林さんは引き続き、実施設計の監修と監理業務にも携わりました。

こうして、2005年2月にいよいよ着工。同年11月のオープンに向け、急ピッチで工事が進められました。

「施工期間は8カ月しかなかったため、相当大変でした。一棟一棟、状態を確かめながら補強して『建物が傾いているけどどうしますか』ということも聞かれました。基本的に構造材は補正して残し、土壁や瓦は全て入れ替えています」(小林さん)

「社寺部の皆さんは善光寺などの古い建物を手がけたこともあったので手慣れてはいましたが、長年の経過によって蓋を取ってみないとわからないことが多くて、施工中もやはり難しさはありましたね。北野建設さんと、どうやって進めていくかのバトルが大変でした(笑)」(越原さん)

工事中に、かつて墓地だったと思われる場所から人骨が出るといったさまざまなハプニングもあったとか。

そして、日本でも職人の数が少ない曳家は須坂市の業者が担当。車のジャッキと同じ仕組みの工具で蔵を上に向かって引き上げ、コロとよばれる直径3cmほどの円柱状の棒をいくつもはさみ、職人の経験を駆使して建物をじわじわと移動させました。なんと、ふたつの蔵を8m動かすのに5~6人の職人で2カ月ほどかかったそうです。

「かなりの手間でしたが、既存の蔵を可能な限り生かすために取り組みました。この蔵がないと、現在、路地空間となっている『蔵しっく通り』もありませんでした」(小林さん)

こうして2005年11月「ぱてぃお大門 蔵楽庭」がグランドオープン。歴史と伝統を受け継ぎつつ現代の感覚も盛り込んだ、懐かしさと新しさが共存する空間として生まれ変わりました。【後編】では「ぱてぃお大門 蔵楽庭」の見どころをご紹介します。

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